中洲の歴史

中洲の誕生は慶長五年(西暦1600年)。
黒田長政が福岡城築城のため福岡の町造りを行った時「福岡」と「博多」を繋ぐために中ノ島だった中洲に「中嶌橋」を架けたのが起源と言われています。
那珂川と博多川に囲まれた0.15k㎡の中洲は、西日本随一の歓楽街に発展するまでには、様々な時代の変遷の中で発展してきました。これからもさらに、皆様に親しまれる安全・安心の中洲、楽しい中洲づくりを目指して参ります。


「博多橋」は畠づくりの為に小作人が造った「作人橋」だった

宝歴元年(西暦1751年)頃に中洲に畠を作っていた小作人達がその必要性からこれまでの丸木橋から金を出し合って役所に頼らず自分たちの手で作ったので「作人橋」と命名された。この橋は数回架け替えられ現在は「博多橋」と改称された。

世界に先がけた「櫛田文庫」

博多の町人は大変な勉強家が多くて、1818年(文政元年)櫛田神社の中にある「櫛田文庫」を開設した。この文庫は世界で一番早い時期にできた公立図書館としても著名である。博多には松永子登や奥村玉蘭等、有名な町人学者がいて玉蘭は「筑前名所図絵」十巻の立派な地誌を出している。

博多祇園山笠の起源と中洲流

博多祇園山笠が始まったのは西暦1243年(寛元元年)で追い山笠が行われたのは、それから240年後の1687年とされている。「中洲流」が初登場したのは戦後の昭和24年7月1日からである。博多山笠の起源は承天寺の開山、聖一国師が悪疫退散のため施餓鬼台(仏)飢餓に苦しんで災いをなす鬼衆や無縁の亡者の霊に飲食を施す法会(広辞苑)に乗り博多の町を舁き回ったのが起源とされている。明治30年後半に飾り山笠と舁き山が分離され今日の形となっている。

豊臣秀吉「博多町割り」の十数年後に『中洲』が誕生!

豊臣秀吉が“博多町割り”と言われる博多の新しい町造りを行ったのが天正15年(西暦1587年)。その後、黒田長政が福岡の町造りに着手し、福岡城(舞鶴城)と商人の町博多を繋ぐために中の島(洲)であった中洲に「中嶌橋」を架けたのが、慶長五年(西暦1600年)。この事実から見ても福岡と中洲は同時に誕生したのです。

学術・文化の街中洲の育ての親「黒田長薄」

中洲明治通り松居壱番館の前に“福岡藩精煉跡地”の石碑が建てられている。幕末から明治にかけて近代科学施設は殆ど中洲を中心に建設されたといわれる。この精煉所は弘化4年(西暦1847年)に黒田長薄によって建てられ小銃・大砲から硝子・陶器・薬品・鉱物まで多種多用にわたって試験され製造された。

百貨店の幕開け

玉屋呉服店は大正14年10月にエレベーター付、地階~5階建てという福岡で初の本格的百貨店が開店し、初日には当時の福岡市の人口が14万6千人のころ約4万7千人ものお客が殺到し大変話題になった。

中洲の守り神「國廣稲荷神社」

歴史は古く黒田藩が財政立て直しの為、中島浜新地に歓楽地帯をつくった。この時は小さな杜であったが、1989年に改築され國廣神社と改称された。商売繁昌の神社で「中洲まつり」の女みこしはこれに因み「國廣みこし」と命名された。

「中洲國廣女みこし」ホノルルフェスティバルに参加

2003年3月13日~18日、中洲から一挙147名もの団体で友好親善使節に参加。博多どんたく以上の観客が見守る中、1.5キロ、一時間半のパレードをホノルルの高校生30名と共に担ぎ通し、日米友好に貢献した。中洲誕生以来の歴史に残る一大イベントであった。